今を溯ること400年、豊臣政権の石田三成ら西軍が徳川家康の東軍に敗北した天下分け目の合戦、『関ヶ原の戦い』がありました。時代は辛く厳しい戦国時代に終わりを告げ、華やかなりし町人文化を特徴とした江戸時代を迎えます。
そのころ、島根県の出雲大社に一風変わった一人の巫女がいました。名前は『阿国 (おくに)』、“出雲の阿国”と呼ばれていました。彼女は、戦によって焼かれた各地の神社を復元しようとしたのでしょうか、踊りながら念仏を唱えるという念仏踊(ねんぶつおどり)を各地で披露して「大社修造勧進」を薦めました。その『阿国』の踊り は、単に踊りながら念仏を唱えているに留まらず、人々の視線を引くようにアレンジされたものでした。当時流行していた『能』『狂言』のセリフと演技を取り入れ、しかも男装といった異様な出で立ちで踊る。人々はそれを見て“奇妙な姿”という意味で 【傾奇踊(かぶきおどり)】といって面白がり、たちまち各地に広がり江戸の城下町まで 届きました。
『阿国』の【傾奇踊】は、江戸の『能』『狂言』役者を筆頭に様々な役者に刺激を与えます。特に刺激を受けたのは小さな芝居小屋であまり舞台に出ない女の役者達でした。彼女たちは『阿国』の【傾奇踊】を【歌舞伎踊】と改め、それぞれの芝居小屋で演じるようになります。当時の【歌舞伎踊】は、男役を女が男装して演じる『女歌舞伎』というものでした。女性だけで演じられるというせいか、演劇舞踊というよりストリップ小屋の傾向が強く、売春がはびこるようになった為、幕府より禁止されます。そこで考案されたのが、『女歌舞伎』と正反対に、男だけが舞台に立つというもので した。当然女役は、男が女装して行われました。いわゆる『女形(おやま)』です。そしてそれに、音楽伴奏や物語を弁士が語る『浄瑠璃』の要素が取り入れられ、現在の『歌舞伎』の原型、『野郎歌舞伎(元禄歌舞伎)』が登場します。
さてさて、何故に「音響効果の歴史」の章で『歌舞伎』の歴史をこうもクドクドと紹介しているのかと思いでしょう。我が国の「音響効果」の歴史を語る上で『歌舞伎』の 歴史を省くことは出来ません。実は「音響効果」の元祖は、『歌舞伎』にあるからです。パ、パーン!
とはいえ、登場したばかりの『野郎歌舞伎』では「音響効果」はまだ存在していませんし、入る余地もありませんでした。なぜなら、『浄瑠璃』の影響で物語は弁士が語ってしまうし、役者が『能』『狂言』からパクッた演技で、雨の中、嵐の中などを演じ、『能』『狂言』からパクッたセリフで「音」を表現すれば、観客は納得していたからです。
例えば、首をはねるときは、“バッタリと首を打つ”や、酒をつぐときは、“トク、 トク、トク”や、汗をかいたら“タラリ、タラリ”といった具合です。
しかし、それまで納得していた観客が次第にそれに飽き始め、複雑な内容の物語を要求しだします。『野郎歌舞伎』の作り手も“客に逃げられては飯がくえねぇ”と内容を複雑にした物語をどんどん作ります。また、物語の内容だけでなく舞台装置が大掛かりな物へと変わります。
場面展開には、《八時だよ全員集合》でおなじみの(古すぎましたか?)「回り舞台」が使われ、舞台の下より役者が登場する「迫り上げ」、《紅白歌合戦の小林幸子》お約束の「宙乗り」など、今日でも使われている舞台装置が作られ、観客を驚かせました。
これらの大掛かりな舞台装置を『けれん』と言い、この『けれん』の登場と同じ頃、伴奏音楽とは別にセリフで表せなかった迫力のある「音」をめざして、研究開発されるようになります。
その手始めとして、楽器を使っての表現がなされます。代表的なものが太鼓です。どんな風に使っていたかというと、みなさんも聴いたことがあると思いますが、幽霊や化け物が登場するとき恐怖感を出すための“ヒュ〜ドロドロドロ・・・”というやつの “ドロドロドロ・・・”のところです。名前も“ドロドロ”と言い、大きな音を出して叩くときは“大ドロ”小さな音を出して叩くときは“小ドロ”と言います。今では、恐怖というよりコミカルな感じで使われることが多いようです。
その他に太鼓は、叩き方や叩く数の違いで「雨」「風」「雷」といった自然音の表現にも使われ、観客を驚かせました。これを担当していたのが、舞台裏で音楽伴奏をしていた『下座(げざ)』と言う人達です。この人達こそが「音響効果」の元祖であり、「効果音」を出す道具を開発していく人々なのです。
開発された道具で有名なのが「拍子木」に似た二枚の短く細い木の板の『付け板』で す。これも、みなさんよく知っていると思います。登場する主役の足音を大げさに表現 するときに“パンパーン”とか“カタカタカタ、パパーンよっ!日本一” といったやつです。これは『付け板』担当者が役者の動きを見ながら、舞台の床を左右交互に叩いて音を出しました。このことで、『付け板』担当者と役者の呼吸が合わなくては悲惨な事態になり、“芝居心がわかる”“音で芝居する”といった専門性が出始めます。他に『付け板』の使い方として、立ち回りの乱れた足音や神霊の出現などにも太鼓と併用されて使われました。
それから時が進み1830年頃になると、色々な効果道具が開発されました。その一例に炊け笛があります。「蛙」「虫」「鳥」「河鹿」「鴬」「トンビ」の鳴き声を出すことが出来ました。しかし、これらの竹笛は、単純に吹けば「音」が出るというものではなく、それぞれに吹き方がありました。いわゆる“コツ”です。
『下座』の中の効果道具担当者は、以前よりもまして専門性が高くなり、楽器 を扱う人と効果道具を扱う人とに別れ出します。効果道具担当へと動いた人達は、次々と「音」を出す道具を工夫して作っていき、観客を物語りの中へと引きずり込む影の仕掛け人となっていきます。そして、『歌舞伎』の中で、無くては成らない地位を確立します。
時代は変わり、明治24年(1901年)大阪堺で“歌舞伎とは違った、写実的な新しい演劇”を掲げる、「オッペケペ節」の川上音次郎が旗揚げし「新派」を確立。大正2年 (1914年)には、島村抱月・松井須磨子らの芸術座と“歌舞伎でも新派でもない、ある新しい芝居”を掲げる、小山内薫・2代目市川左団次らが「新劇」を確立。次々と舞台芸能が変貌し、数々の劇団が出来て行く中、効果道具の研究開発は、歌舞伎時代と変わらず進められました。新しいものを求めて出来た「新派」「新劇」は、効果音による「音の演出」の要求へと力が注がれます。
そこで、効果道具担当者の「音響効果」の連中は、西欧の手法をどんどん取り入 れ、写実的効果音による表現方法の研究開発に没頭します。例えば、「風車」「馬蹄」「火山」の音を出す効果道具輸入,開発です。この輸入,開発等は、少人数の「音響効果」で出来ることではありません。当時の国政も「新劇」「新派」「歌舞伎」の大衆化を進め、初代内閣総理大臣『伊藤博文』自ら帝国劇場を落成させました。
そして大正14年(1926年)、NHKの前身である東京中央放送局が生まれ初のラジオドラマが放送されることになります。
放送時は、既に効果道具が用意され各劇団所属の「音響効果」担当者総勢13名が集まり、舞台の効果道具様式を取り入れた放送用の音響効果スタイルが確立され愛宕山より生放送されるまでと至ったのです。
「音響効果」という職種は、テレビやラジオが出来てからの職業だと思っていた人が多いと思います。ですが実は、古くから舞台芸能の中に潜んでいたのです。
また、竹笛を使って虫や鳥の「音」を出すといった発想は、日本特有の物で、昔から日本人は「音」と密接な関わりをもって生活してきました。「音」に拘ってきた日本人の生活がよくわかります。こういった民族だからこそ「音響効果」が発達したのかもしれません。 |