ゆだ苑




















通常、音響効果が取材に同行することは余りないのだが、DATで証言を収録したり、現場の状況音を収録してほしいということもあり相棒の細見と機材を抱えて山口へと向うことになった。

ディレクター田中正と細見の3人で博多駅に到着。待ち合わせの時間より少し早めだったせいか、さすがに御大の姿はなかった。待ち時間を利用して博多名物の【とりめし弁当】をGET。不味いコーヒーを胃に流し込み、タバコを一服していると井田さんが鼻息荒く登場した。

「おはよう!さあ、行こうかね諸君」

新幹線で【とりめし弁当】を食すと、また一服。新山口駅に着くとタクシーに乗り込んだ。タクシーの中でも、スーパーハイテンションの井田さんが、ああでもないこうでもないと運ちゃんに話しかける。

「ここから右にまがるんやなかったかねえ、あっ違う」 
「この辺はホントに何にもないねえ」 
「あれ?違う違う!そこから右やろうもん」 
「信号が赤でもいっちまいなよ!」 
「山口は食いもんのまずかもんねえ」

・・・まるで年に一度の遠足を待ちわびていた幼稚園児のようだ。

湯田につくと、いきなり食事だ。私は【とりめし弁当】を食べて間もなかったから軽くそばがいいと主張。山口の食べ物は不味いと言っていた割には美味かった。相棒の細見はざるそばを三杯も食べていた。美味いそばで胃もこなれたところで、さあ取材だ!と構えると、

「まあ、そう慌てなさんな。コーヒーでも飲もうや」

余裕である。少し心配だなあ・・とは思ったが、それならばと私も持参したカメラでパシャパシャ写真を撮っていた。

昼も2時をまわらんとするころにようやく『ゆだ苑』に到着した。

ゆだ苑とは一体何なのか?簡単に説明しておこう。

昭和四十三年、山口大教授の募金活動が起点となり、「温泉で療養しながらくつろげる場所」として湯田温泉近くに温泉付き宿泊施設が完成した。
山口県原爆被爆者福祉会館『ゆだ苑』の始まりである。
利用者が年間二万人を超えた時期もあったが、被爆者の高齢化とともに二十七年後、一旦取り壊された。しかし、同じ場所に完成した自治労会館の一階に軒を借りて、生まれ変わった。一階ロビーには、原爆関連の本やビデオを置いた「平和文庫」や倉庫に眠っていた被爆資料を展示している。

1Fロビーに入り挨拶を済ませると相棒の細見がシコシコと機材のセッティングを始める。

マイクはゼンハイザーMKH416(モノラル)を2本とサンケンのCMS-9(ステレオ)。インタビューを録るときは、向かい合って座る二人にそれぞれMKH416をたてる。ミキサー(シグマ  332)でRchとLchにそれぞれのマイクの音を振り分けて、DAT(ソニーD10 PRO)に録音。こうすることで、後で声のバランスをとり直したい時やどちらかの声を消したいときなど、後の作業がやりやすくなる。もう一つのマイク、CMS-9はステレオマイクなので、街音やオープンノイズなどステレオで録音したい音があるときに使う。ミキサーは、モノラルを2ch、ステレオを1ch入力する事が出来るので、ステレオマイクとモノラルマイクをミックスして使うこともできる。

さて、証言者の方がいらっしゃるまで『ゆだ苑』の1階フロアにある原爆の資料を何気なく見ていくことにする。所狭しと陳列されているその資料の数々を眺めていくうちに、意外と呑気に構えていた我々に【原爆】という現実がおそいかかってきた。

展示された写真や人形は、原爆資料館等で観ることができるモノや、この世のモノとは思えないモノまで揃っていた。ディレクター田中と私は「なんじゃこりゃあ!」を連発していた。別に茶化しているわけでもなんでもないのだ。とにかく凄まじいのである。

“戦争を知らない子供たち”でもないが、

「我々の想像を遙かに超えた事が、その時に起こったのであろう」

ということぐらいは容易に想像できる。

しかし、我々が実際にそれを体験したわけでもなく、ましてや、戦争すらも知らない世代が原爆投下直後の広島を再現するということを考えただけでも頭が痛い。

そんなことを考えつつ窓際の方に目をやると、200本あまりの証言テープがガラスケースの中に置かれていた。これらの証言テープには被爆者達の生々しい肉声がおさめられているのだ。事務局の方によれば、倉庫の中には未整理の証言テープがまだまだあるらしい。

私は、太陽光線が差し込む窓際にカセットテープが置かれている事が少し気になった。時代の流れによっての劣化が唯でさえ激しいものに、強い日差しが更なる劣化の拍車をかけることなる。MDにダビングして保存する事をすすめた。我々もお借りするテープに関してはMDにダビングしてさしあげることにした。

多少ブルーがかった我々を後目に収録が開始された。作家の井田さんが被爆者の富永さんの証言を引き出しはじめる。話を聞いていけばいくほど凄まじい内容だ。ブルーは更に深みを増し“限りなくブラックに近いブルー”となっていった。

かといって、ブルーな気持ちになっているだけでは、何の為にここに来たのかわからない。そこで私はディレクター田中に次のようなことを尋ねてもらうようにした。

『ピカドン』(原子爆弾を昔こう呼んでいた)の『ピカ』という部分、一体どのようなものなのか?富永さんの言葉を借りれば、「カメラのフラッシュや雷の光のような感じ」であるらしい。今でもカメラのフラッシュをたかれたりするとドキッとするそうである。

被爆した直後の音の印象はどうか?という問いには、「何も音はしていない。ただ、耳鳴りのような、B29の上空音のような音の印象が記憶の中にある」ということだった。

これらの証言が後の作成での大きなヒントになった。 

証言を収録し終えると神妙な面もちだった井田さんが再び腕白小僧のように元気を取り戻した。ホテルにチェックインするや、

「風呂に入って戦闘態勢や!」と、血気盛んである。やはり曲者だ・・。

山口の夜は井田さんとともに更けていった・・(この後のエピソードの方が実は面白いのだが、全体の流れから思いっきり脱線しそうなので割愛させていただきます)。