「戦後」という言葉が私たちの日常から次第に見かけられなくなりました。八月十五日の日付が「あれ、何の日だっけ。あ、お盆か」と連想されるのは、平和で良いことなのでしょう。すでに五十三年の時間が経過しているのですから『敗戦の日』の記憶が薄れているのも当然です。
八月六日。ヒロシマ。
広島市民には忘れろといっても忘れられない日です。でも、「広島市民にとっては」と但し書きをつけるのは、どう考えても不自然です。大げさではなくて『人類が初めて核爆発によって惨殺された日』なのですから。だれにとっても「忘れてはならぬ日」だと思います。
毎年、この日になると『行事』が行われます。原爆の碑の前にたくさんの人が集まります。その日の新聞には、原水禁とか原水協とかの組織名が見えます。同じ目的なのに、何で違う組織が競争するように主催しなくてはならないのか、首をひねります。でも、問題はそんなイデオロギー云々のことではありません。問題は私たちなのことなのです。
偶然に、金子弥吉さんという一人の被爆者のことを知り、この人の被爆体験を語っているテープに出会いました。爆心から直線距離にして三百二十米ばかりの路上で被爆。そのまま広島の西部まで歩いて、故郷の山口県熊毛群へ軌跡の生還を果たした人です。苦痛と呼ぶには痛まし過ぎる闘病生活を送り、七十九歳まで生きた人です。
山口県内の被爆者は推定で約一万人以上と思われますが、被爆者手帳の交付を受けているのは六千数百人しかいません。それは(被爆したことが)周りの無理解、つまり結婚や日常生活での周囲からの差別を危惧しての、被爆隠しという悲しい現実にもつながっているようです。
私たちは今、一つのドラマを組み立てようとしています。金子弥吉さんが生き残ってきた軌跡を再構築しようとしています。それは金子さんをはじめ、数知れぬ被爆体験を持つ人々がほとんど死に絶えて、被爆という凄まじい痛み、苦しみを直接に語る人々が絶滅しかけている現実を見るからです。
被爆二世たちは、親の姿から直接に「被爆」の生々しい姿を知っています。三世になると間接にしか知ることができません。その被爆二世ですら、次第に人生の余命を数えるようになって、被爆の記憶は時間の経過と一緒に風化の途をたどって行きます。
「風化させてはならぬ」という思いが、書く人間、制作する人間、演出する人間に、それぞれの違った世代の中にあります。出演者、スタッフの一人ひとりにも、この思いはつながるものと思います。どうか、それぞれの思いで「被爆者・金子弥吉の軌跡」を受けとめて下さい。
|